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氷川神社 社名由来・御由緒
現在はさいたま市という地名ですが、(旧:大宮市)大宮の地名の由来は 大いなる宮居と呼ばれた氷川神社から由来した地名。鼻のように高く突き出た場所にあったことから名前が付けられました。
創建は五代孝昭天皇の御代、約2400年前とされている。
第12代景行天皇の代に武蔵国造一族となったと云われる出雲系の氏族がこの地に移住し、須佐之男命をはじめとした三神が出雲の家族神として祀られました。
氷川神社の社名は、神社付近の“荒ぶる川”「荒川」を、八岐大蛇をシンボルとし出雲平野を流れる「斐伊川(ひいかわ)」に見立てて「氷川」と名づけられた。古語で霊験あらたかな泉指す言葉でもある。
明治になると東京遷都に際して武蔵国の“鎮守・勅祭社”と定められ、明治天皇自らが大宮に行幸し、関東の神社の中で明治時代になり最初にご親祭が催行されました。
氷川神社 御朱印
氷川神社の御朱印には神紋の八雲の印が押されています
大湯祭特別紙朱印は祭典の期間に授与されます
11月30日より12月11日まで12日間に亘る長い祭典です
「大湯」の由来は釜で湯を沸かし、その湯により清めを行った為と伝えられます
朱色の楼門が紅葉と同化し、紅葉をより引き立てています
氷川神社の龍神伝説
大宮の氷川神社の境内の東側には、江戸時代中期まで存在した広大な「見沼」があり、見沼には龍神が棲むとされその伝説の名残が神池。
毎年催行される例祭の8月2日に執り行われる神幸祭では、本殿でご神霊を神輿に遷し渡御され、神池の水で清められた神橋に奉安する「橋上祭」が執り行われている。
水面に紅葉の木々が映り込み神橋とのコントラストが美しい
氷川神社には祭典に雅楽を行う雅楽会があります。毎年4月5~7日の鎮花祭(ちんかさい)には「花しづめの舞」4月9日の護国神社の例祭には「浦安(うらやす)の舞」が舞殿で奉奏されます
氷川神社 御祭神
須佐之男命(すさのおのみこと)
イザナギノミコト・イザナミノミコトの子でアマテラス・ツクヨミと共に「三貴子」と呼ばれている。
父であるイザナギから海原の支配を任されたが、母、イザナミが恋しいと泣き叫び災いを招いた為、追放されてしまう。
その際、アマテラスに別れの挨拶に向かうが、アマテラスは弟、スサノオが攻めてきたと勘違いする。気性の激しいスサノオは高天原の神々を困らせる事件を起こしてしまい、葦原中国(地上)へ追放されてしまう。
追放されたスサノオは出雲に降り、クシナダヒメと出会って結婚し。嬉しさのあまり「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と和歌を詠んだ。日本で最初の和歌となる。
稲田姫命(いなだひめのみこと)
八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の物語のヒロイン。、神社には稲田の守護神として祀られています。
神話では、出雲国の簸川(ひのかわ)現在の島根県斐伊川の上流に住む足名槌(あしなづち)、手名槌(てなづち)という夫婦の八番目の娘として登場。
上の七人の姉たちは、山奥から出没する怪物八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄になって食べられてしまい、最後に残ったいなだひめをすさのおのみことが救いスサノオノミコトの妻となった。
大己貴命(おおなむちのみこと)
父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)日本国を創った神とされている。
須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせ りびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営。葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。
国づくりの後、アマテラスへとお還し(国土奉還=国譲り)になられ、宇迦山の麓に壮大なる宮殿(出雲大社)が造営された。
おおなむちのみことは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導くこととなった。因幡の白兎の話、根の国訪問の話など、おおなむちのみことには多くの話がある。
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